| ワークセッションは、前田氏がビジネスとしてとりくんでいるCGMとコラボレーションの関係、そして人はそれをつかうことがなぜ楽しいと感じるのかについて俯瞰するプレゼンテーションからはじまった。 |
■CGM
Consumer Generated Media。クチコミサイト、ブログ、SNSなど、消費者が情報を創出していく形式のメディア。 |
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■前田氏 私自身、モバイルのアプリーションというのは、課題になっています。PCでのサービスとはまったく異なるという認識があるので、簡単にまとめらるものではありません。私が会社〜関心空間〜としての取り組んできたことがCGMでしたので、モバイルの世界でも同じような取り組みをしていきたいと思っています。
CGMの定義自体は明確なものがある訳ではないのですが、ユーザーが投稿したコンテンツが別のユーザーにも再利用可能な形になっていて、それらの情報の集積やつながりが、メディアとしての価値を持つ・・・というようなものと考えています。ただ、モバイルはインターフェースが小さいので、そのようなメディア感というか、情報の集積具合やつながりの広がり方を表現しにくいなと思います。ずっと縦に長くスクロールしていくような操作感では、情報が立体的に上下左右につながっているという感じが表現しにくい、デザインしにくいと思うのです。そこをどのように解決するのかというのが、今のところの課題です。 |
■関心空間
2001年にはじまったウェブサービス。参加者はキーワード単位で情報を入力し、キーワード同士を「つながり」でリンクしていく。キーワード自体の情報の価値の他、キーワード間の意外な「つながり」がさらにつぎの「つながり」を呼ぶなど、コミュニティのように楽しむこともできる。 |
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| 一つキーになるようなものとして考えているのは、目の前に見えている情報の断片の先に、セレンディピティと呼ばれたりするものがあるというのと似ているかもしれませんが、意外なんだけれども共感できる情報のつながりが見えるというか、その情報の先にすすみたいと感じさせるモチベーションのようなものをどう表現するかということでしょう。
最初は情報の断片を見ているのですが、だんだんそのような断片を見続けているうちにその情報たちの連鎖の全体像が見えてくるようなこと、そしてその構造を知ることがまたそれぞれの情報の魅力になっていくこと、さらにはその構造の中で自分が一つの役割を担いたいという欲求、つまり「自分が投稿したらさらにその構造物が有意義になるのではないか」と感じることで、CGMがうまく構成されていくと考えられます。
CGMでつくりあげられた構造物や情報がパブリックなのかプライベートなものなのかということは大変あいまいな状態かもしれませんが、あいまいさをなくしたCGMももちろんありますし、「あいまいであることも面白い」というのもまたCGMです。例えばwikipediaはあいまいな状態ではなく、「公共有益性」を前面に出してみんなで編集できるしくみにしています。関心空間では、プライベートな情報の集まりやつながりなのに、全体としてはその情報の集まりやつながりは公共性を持っているように感じさせるものです。
前回のミーティングの次の日に、江渡浩一郎さんと対談をしたのですが、ちょうど似たような話〜「つながり」という言葉〜を田中さんがされた後だったので、それには面白い偶然を感じました。例えば、クリエイティブについての話ですが、パッと見た瞬間は異質なものであっても、ある観点から見た時のその視点に気づくことで「あぁ、それってあるよね」というような異質なつながりが面白い、というような話ですね。
そういう「異質なんだけれどもつながっているもの」という視点を提供するようなサービスが、インターネットではまだないかなと思います。単なる精度の高い検索エンジンではなく、もっと自分に刺激を与える「つながり」をかえしてくれるようなネットサービスがないかな、というような切り口もあると思います。 |
■セレンディピティ
現在、直接に探している対象から、偶然的にこれまで別に探していた対象または関連するものを発見する能力。 http://ja.wikipedia.org/wiki/セレンディピティ |

 
■江渡浩一郎さんと対談
技術評論社刊「WebSiteExpert #10」に掲載。 |
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「コラボレーション」ということについて視点をうつしてみましょう。
例えば、「ブレインストーミング」という方法があります。20年くらい前にアメリカの広告代理店の人が、「会議に結論を持たせず」「かつ会話の多様さを競う」という当時の会議ではあまり考えられない方法を創りだして、いまではもうすぐに「ブレストするか?」みたいにみんながよく使う方法になっているのですが、プランニングの際などに有効な方法といえます。これも、同じような知識水準の中での微妙なずれを楽しむようなところがあって、例えば小学生と大人がブレストをやってもあまりうまくいかない・・・というようなことはあると思います。そういった、微妙なずれを楽しむという点からは、先ほどのCGMともつながりますし、CGMもブレストというかコラボレーションの一種とも言えるかもしれません。
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■ブレインストーミング
あるテーマについて自由にアイデアを出しあう、発想支援技法の一つ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ブレインストーミング |
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| このようなことを考える時に、一ついつも参考にしているのが、チクセントミハイという社会学者の「フロー」という考え方があります。
このチクセントミハイというひとは、登山家でもあつたそうなのですが、山を登ったり、ゲームをしたりする人たちが、なぜそれを楽しんでいるのかということを論理的に解き明かそうとした人です。彼はフローという概念を次のように考えました。例えば登山の難度を例にしますが、私がいきなりエベレストに登るとしたら、それは命がけになってしまい、ぜんぜん楽しいものではないのです。しかし、大学などで登山をしている人にはそれは楽しいものと感じるかもしれません。つまり、それぞれの人の経験レベルによって、楽しいという幅が異なっていると言えます。同じように、チェスでも、同じような技術のレベルの人か、それより少し上のレベルの人とでなければ楽しくないと感じるでしょう。すごく強い人やすごく弱い人とやっても達成感のようなものはないわけです。その楽しみを感じるということを「フロー」という言葉で表した訳です。
この例を、関心空間での事例で考えてみます。例えば、あまりにも当たり前すぎる視点やつながりは、本当につまらない。「iPod」自身に「iPodつながり」で何かを紹介しても、当たり前すぎて面白くありません。しかし、「iPod」に「皮革メーカーのケースがでたよ」というような関連情報なら価値があるというか、みんな興味を持ってくれると思います。
リアルなコミュニケーションでも同じように、誰でも知っていることを滔々と語るような人はあまり面白い人とは評価されません。そういう話にフローは感じないですね。
「あぁ、こういうつながりがあるのか」というような発見があってはじめてフローを感じられる訳ですし、そういうフローを与えられる人とのコミュニケーションはより楽しくなっていく・・・ということです。
そういうコミュニケーションの中でおこるフロー体験が、関心空間のようなCGMでもおこっているのではないかと考えています。
それをどのように創りだしていけるか、フローを保たせることができるか、ということがCGMを提供する上で重要な課題だと思います。
フローを提供するための一つのカギになると私が思うのは、情報の単位のようなものだと思います。情報のつぶと呼んでもいいかもしれませんが、一つの情報の分量やそれをどのように提供するのか、ストックされるものなのか流れていくものなのか、再利用可能なのか、というようなことが、例えばPCとモバイルでは異なるのかもしれません。そういう場合に適切な解というか、適切な提供方法を考えるというのが、私の現在のテーマといえます。 |
■チクセントミハイ
Mihaly Csikszentmihalyi。
「遊び」の中で発生する「楽しみ」などに注目した心理学者。文中の「フロー」については、「フロー体験 喜びの現象学」という書籍にまとめられている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/チクセントミハイ |
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| プレゼンを受けてディスカッション
このプレゼンテーションの後、コラボレーションについてのフリーディスカッションが行われた。 |
■クリエイティブ コモンズ
知的所有権や著作権とバッティングしない「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」を定義し、創作物の流通や検索、改変に対する新しいルールを定義しようとするプロジェクト。
http://www.creativecommons.jp/ |




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| ■田中氏 コンテンツの扱い方なのですが、クリエイティブコモンズのような、共有と所有の中間のようなものをつくりだして、自分の名前が入っているなら使ってもいいだとか、ビジネスではなければ使ってもいいというような形だとか、CGMでの情報の扱い方について興味があります。
■前田氏 ビジネスにつながるような実装としてではなく、思考実験として考えているのですが、公共と私有の混ざり方に興味があります。
もし街をつくるとして、お役所がすごく計画的に街を作ってしまったとしたら、私にとっては魅力がない街になるだろうと思います。しかし、逆に、街を構成する人々それぞれが、自分たちの好きなものを作っていってしまったら、街としてはそれも混乱してしまうと思います。闇市のようなというか。
そういうフレームというか枠組みにはコンセンサスがあって、それはつまり公共の意識ですね。一方で、自分が住みたい場所としての街をつくるために、ある程度の自発性というか私有の部分もあります。街を魅力的にするのにどのように参加していくといいのかという問題は、この公共と私有の問題でもあると思うのです。
例えば、「よい街にしよう」ということは、書いて街に張り出したりするものではく、みんなで思うものだと思います。そこでどのように自発的なものがでてくるのかに興味があります。 |
| ■田中氏 コミュニケーションからコミュニティになることの過程ということでしょうか。 |
■前田氏 時系列的に言えば、例えば今日、田中さんと私でこの話題が盛り上がって、じゃあ今度また話をしましょうというところでは、まだコミュニケーションかなと思うのですが、それを毎週のように時間を決めて議論するようになり、そこへ渡辺さんが参加してくるというようなことになれば、もうコミュニティですよね。
先ほどのフローと同じで、例えばボールを投げて、投げ返されるというキャッチボールもコミュニケーションだと思いますが、渡辺さんにボールを投げたのにそこでそのボールをじっと持って動かなかったとしたら、そこでコミュニケーションは終わってしまいます。でも、「ちょっと考え事をしていた」ということで動かなかったんだとしたら、次にボールを投げ返す瞬間からまたコミュニケーションが始まります。そのリピート感がまさにフローですね。
関心空間のようなコミュニティでも、例えば自分があるコミュニティに対してボールを投げたとして、そこでボールが帰ってこないとしたら、そのコミュニティには二日くらいはレスポンスを待てるような人から、すぐにレスポンスがなければ待てないような人までいますよね。すぐにレスポンスがほしいというような人は、ミクシィの足あと機能を重要だと考えるでしょう。一方でそういうべたべたしたコミュニケーションは嫌いだという人もいます。
コミュニケーションがある程度継続性のある状態で、なんらかのテーマ性を帯びた時に、コミュニティに変わったと言えるのかなと思います。 |
■渡辺氏 マイケル・シュレーグという人が書いた本で、シェアード・マインズというものがあります。15〜6年前に書かれたこの本は、コラボレーションということについて一番よく書かれた本だと思うんですけれども、「コラボレーションとは共有された創造のプロセスだ」という言い方をしています。
そしてコラボレーションと呼べるような条件として、「コミュニケーションはコラボレーションのきっかけになっていることもあるがそうはならないものもある」とか、「コラボレーションのためには目的をきちんと共有できていなければならない」とか、フローの時にでてきた話に近いのですが「ある程度レベルがあっていなければならない」とか、「共有された場、ワークを行う場がなければならない」という定義の話が出ていて、これはそのままコラボレーションする場をデザインするという話になっています。
例えば、駅のホームでもコラボレーションが成立することもあるけれども、きちんとした会議室でもコラボレーションが成立しないこともある。それは集まった人たちのどういう属性がコラボレーションにとってプラスになっているのか、という話だと思うのですが、ケータイでのコラボレーションの場合とかモバイルでのコミュニケーションの場合、文脈を追っていくことがインターフェース的に難しいと思います。それはさきほどの定義から考えると「プロセスを共有できていない」ということになって、すごく即物的なコミュニケーションは成り立つけれども、コラボレーションは成り立ちにくいというようなことはあると思います。メールの使い方でも、PCでのメールだとある程度文脈はおえますが、ケータイだとそうはいきません。
ですから、モバイルでのコラボレーションという場合、そこがどのように改善されるとコラボレーションになるのかという問題提起になりますね。
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■マイケル・シュレーグ
シェアード・マインズでは、ザ・ビートルズやDNAの二重らせんの発見からビジネスミーティングまで、目的をもった複数の人の共働・共創の過程をくわしく考察し、そのための道具や環境のデザインのあり方まで見通している。
MITメディアラボの客員研究 |
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■前田氏 私は「ギャル語」とか「2ちゃん語」に大変衝撃を受けました。
インターネット上に機能を増やそうというのではなく、あのあえて作られた誤解から広がるイメージと言うか、もう違う言葉なんですけれどもその印象は共有できて、それを誰かが作った後で2人以上に通じたというプロセスが興味深いと思います。
そういうことが極端な例ですが私の知らない間にいろいろなところで起こっていて、いまもデコメールとかで派生していっていると思います。
技術を新しく作るというのではなく、技術によるずれを文化が許容したと言えるかもしれません。「2ちゃん用語」も大人が使うのはついこの間までは恥ずかしかったと思うのですが、みんな今「萠え〜」とか言っているということも、面白いと思います。 |
■ギャル語、2ちゃん語
それぞれ、渋谷を中心としたコギャルの間で使われてたり、掲示板サイト「2ちゃんねる」でよく使用されている、独特の言葉。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ギャル語
http://ja.wikipedia.org/wiki/2ちゃんねる用語 |
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| ■渡辺氏 昔、ポケベルを女子高校生が暗号表のようなものをつくって流行ったわけですが、確かにビジネスマンなんかに向けて作ったはずなのに必ずしもそういう意図した使われ方をしていないというか、そういうものはわざと誤用をするように作ったんでしょうか。それとも、そういう誤用を許容するなにかがあったのか。設計者はそういうところまで考えていたのかどうなのか、そのあたりはどうなんでしょうか。 |
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■高橋氏 それは、この間も話にでたと思うのですが、私たちデザイナーが付加したものと、ほかから付加されたもの、みたいな話ですよね。
例えば、文法を考えてみると、「ぜんぜんおいしい」というような言い方があると思います。もともとの用法では、「ぜんぜん」のあとには否定がなければならないはずなのですが、今では「ぜんぜん」のあとが肯定でもおかしくない。ちょっと気になって、これがどのようにでてきたのかが気になったことがあって、わかる範囲で調べてみると、どうも戦前・戦中のあたりで漫画家さんがいて、その人の漫画の中で使われていたり。つまり、「ぜんぜん」のあとに否定が続くと期待されるはずが、次のコマでそうではないというようなところに、笑いが生じていた・・・というように、共有された文法からのずれが笑いになっていたところもあると思います。最近はそのようなもともとの文法の共有なしに、使い続けているというようなところもありますね。聞いた話ですが、「あたらしい」という言葉も、もともとは「あらたしい」が本当だったのに、それが若者言葉というか、「こっちの方がカッコいい」というような受け取り方をされて、「あたらしい」が広まったということがあります。
そういうものも含めて、若い人の感覚というのは、フォーマットに対してアンチの方向にあると思っています。ギャル語なんかも、私の知っているなかでも何世代かの変遷があって、「差別化したいのにまぎれたい」という微妙なところ、つまり前の世代のフォーマットからの逸脱があると思います。
ある業界での特有の言葉や言い回しがあって、その言葉を知ることで「自分はこの業界にいる」というようなステータスを感じるようなことと違って、ギャル語には「他の人と差別化したい」「でも、まぎれていたい」という別々のものが、ちょっと理解できない形で結びついているという印象です。その結びつきが見えないので、女性向けのものを作るのは難しいですよね。 |
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■前田氏 自分は、「共有」とか「コラボレーション」はいい言葉だと思っているのですが、それを踏まえて作ったものは若者たちにはうまく共有されないという印象です。
あえて「楽しく共有しましょう」ということからアプローチしてしまうと、恋愛と一緒かもしれませんが、すり寄った感が感じられて、つまらなく見えてしまうということに似ているかもしれません。その微妙な距離感があると思います。 |
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| ■田中氏 もともと「コラボレーション」というのは軍事用語だったと思います。より大きな目的を達成するために、戦っている敵と同盟を組むというような。 |
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| ■渡辺氏 アメリカはそういう異なるものと手を組まなければならなかった文化というか社会背景があったかもしれませんね。 |
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| ■前田氏 一方で日本では、ちょっと異質感があって、かつなれ合いたい、しかし完全に文脈からはなれると無視されていまう、という微妙な距離感ですね。 |
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■高橋氏 主従関係があるときの共同作業はコラボレーションとは言わないですよね。お互いにピンとピンで渡り合っていて、成立する関係性かもしれません。
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■前田氏 ネットはそういう主従関係を目立たせない形で発展してきたので、ネット上ではコラボレーションという言葉が親和性があるのかもしれません。
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| ■高橋氏 私はたまにコアな言葉について検索することがあるのですが、そういうときに引っかかってくるのは、コピペ文化の象徴というか、ネタ元が同じようなものしかないような経験があり、それもあってインターネットの文化にちょっとなじめなかったことがありました。かえって、周りの友人に聞いた時の方が濃い情報にぶつかるというか、wikipediaは便利ですが、そきほどの言葉の誤用のように「誤用であることを気づかれずにそこにあり続ける」情報への怖さを感じるんです。 |
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■前田氏 そうですね、googleがあまりに権威的になってしまったために、そこから外に出るためにはどうしたらいいのか、というようなことも先ほどの対談の中ででてきました。こういうところで高橋さんのように危機感を持って話していても、例えばこの1時間後にはまたgoogleをつかってしまう、というような。
たとえ、googleの中に深く特化された小さなコミュニティをたくさん作っていったとしても、解決にならないことだという人も多いですね。現実の世界での検索手段を使える人でないと、そのgoogleの世界から抜け出すことは難しいと思います。ただ、最近のネット業界の人だと、「それはついていけなくなっただけじゃないの?」という意見もあって。
現実世界に生きている人間だから、現実世界が大切というのは当たり前だと思うのですが、成功経験が現実世界ではなく、ミクシィのようなコミュニティでの経験のほうが多いと感じるのであれば、そちらのほうがより大切だと感じるのは仕方がないのかな、とも思います。
私が仕事をする上で自信が持てたことというのは、現実での評価があって、つまり関心空間が社会的にある程度認知されて、そこから出会える人も多くなったということですね。そういう経験を私以外の方もできるよう関心空間をとおして手助けできるのではないかな、ということも考えるようになりました。
将来の関心空間を考えていく時に、なかなか理解してもらえないのですが、そのブラウザの外側に関われる世界を作っておきたいというのはあります。 |
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■中島先生 私の周りの学生も、wikipediaを活用する人が多いですね。式も昔はああでもないこうでもないと引き出してきたものの、最近はMathmaticaですぐですし。
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| ■田中氏 私もたまに授業の資料はwikipediaから引用したりしますね。 |
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■松尾さん 学生からということだと、検索のときには、2つパターンがあると思っています。
wikipediaとかを使う時は、過去の情報を調べたりします。
新しい情報、例えば今日の話題やなんかについては、ネットではみつからないだろうと思いますので、友達と話すなどといった検索方法になると思います。全部wikipediaですまそうというわけではないと思います。 |
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| ■田中氏 私の場合、wikipediaの情報を講義で使うパワーポイントにまとめなおす時点で一度咀嚼があるのですが、そのまま掲載された情報をとらえてしまうと怖いですよね。 |
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■松尾さん 1年くらい前、googlezonというムービーが話題になったと思います。
googleとamazonが提携して、検索からおすすめのものから提供されるようになり、新聞社はなくなるのではないか、という疑問の提示なんかがありました。ただ、ムービーの最後には、まだ誰も知らないような情報等は人と人との間から生まれるんじゃないか、とか、だから新聞社はまだ生き残れるんだ、という可能性を提示して終わっていました。 |
■googlezon
2014年を舞台にした、架空の未来を描いたショートフィルム。タイトルは「Epic2014」 http://www.probe.jp/EPIC2014/ |
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■高橋氏 ネタとそれを素材にどう自分で結論づけるかというようなことに対して、理解している人はいいと思います。
でも、コピペは責任の所在がはっきりしないというか。平凡社の百科事典はすばらしい仕事をしたと思っているのですが、インターネット上の情報がパブリックドメインとして公開や共有されることは、すばらしい時代になったなという一方で、責任の所在がなくパブリックドメインになってしまったものに対する怖さはやはりあると思うのです。話の根拠が成立しなくなるというか、昔の百科事典はそういう部分を執筆者が名前を公開することで責任をおっていたと思うのです。
ある時点からそれはすごく希薄になった気がして、暗黙にすすめている話の中で、前提条件等を検証することなくすすめていることが最近は多いなと感じています。 |
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| ■松尾さん オーマイニュースというサイトでは、2ちゃんねると違って誰でもニュースを投稿できるものの、編集部で選別して公開するという方針で、やっぱり2ちゃんねるでは「それではぜんぜん自由ではないんじゃないか」とかいう意見もでていますよね。 |
■高橋氏 それは先ほどの前田さんの話にもでた街づくりの話と同じで、どこまでのフォーマットを共有して、どこまでを個人の意思としてのこすことができるのかというようなことですよね。
例えば街づくりと言ったような点からだと、ヨーロッパはそのフォーマットの共有がよくできていると思うのですが、日本ではあまりうまくできていなくて、結果として街に魅力がないというようなことが言われますよね。 |
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| ■前田氏 wikipediaの話が多かったので、ちょっと簡単に紹介します。ウォード・カニンガムという人が、wikiというシステムを最初に開発したのですが、この人はソフトウエアの開発者として実績がある他に、パターンランゲージという考え方、もともとは建築の用語なのですが、そういう考え方を開発者たちに紹介した人でもあります。クリストファー・アレグサンダーという人が提唱した、「家は住む人が作るものだ」という考え方を実現するために、建築を知らない人が家を造ることを考えられるようにする手法なんですが、この考え方というのはフォーマットを共有するというような意味でこれまでの公共圏のような考え方とよく似ています。このフォーマットの共有ということをベースに、エクストリーム・プログラミングとか、アジャイルな開発とかをウォード・カニンガムは考えて、そういったことがwikiのようなシステムにもつながったというような歴史があるわけです。ユーザーが建築に参加するというのは、ある意味CGM、自分たちで街を作るということで、そういうつながりがあるわけですよね。 |
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■田中氏 その結果、多様な種類のものが存在した方がよいと思いますよね。
例えば、現実のウェブのつながりで今年一番印象に残ったものとして、Cシャツというプロジェクトがありました。みんなが着ているTシャツにQRコードのタグがつけられていて、PCのサイトからみてみるとそのデザインを見ることができて、さらに加工して新しいシャツを作ることができる。そしてそのシャツにはあたらしいQRコードのタグがついて・・・というCGMというか、現実とネットをうまくつなげた形になっていて、すごく面白いなと感じました。 |
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| ■渡辺氏 ここで、少しコラボレーションの分類について考えてみましょうか。 |
・時間軸を越えたコラボレーション 音楽のループとそれを組み合わせるサイトを紹介
これまでの音楽では、その場にいなければセッションを楽しむことができなかったが、このような形で新しいコラボレーションの可能性があるのではないか。
著作権の問題もあるかもしれない。
音楽はまだフォーマットがあるので、壁にみんなでいたずら書きをしていくというようなものとは異なる可能性があると思うが、最終的には参加する人の意識によるのかなと思う。
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・みんなで楽しむコラボレーション 動画の時間軸にコメントをいれることができるサイトを紹介
そのときにいなくても、あとから何処が面白かったのかなどについて同じタイミングで楽しめる。
モバイルでは、この楽しさは共有できないかもしれない。それは、モバイルの方がより現実空間に近いからかもしれない。 |
■動画の時間軸にコメントをいれることができるサイト
http://www.nicovideo.jp/ |
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| ■田中氏 ネットとモバイルの話に戻ると、ネットワークでつながっていろいろとコラボレーションが行えるというような時に、「移動する」ということはどういう意味になっていくんでしょうか。 |
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■渡辺氏 一つ例があるとすると、歴本さんがやられているPlace
Engineというのもヒントかもしれません。街の中のアクセスポイントをつかってその位置情報を登録していくことで、wifiのつながった位置から自分の場所が分かるというようなものですね。
fonなんかもそういう使い方ができると面白いかもしれないですね。
こういう実空間とweb2.0の組み合わせみたいなものは面白そうですよね。このPlace Engineの精度を上げることが、そのままコラボレーションになるかもしれないですし、場所に特定の経験が蓄積されることで「この場所にはなにかあるのかもしれない」というような予知検索みたいな使い方ができるのかもしれない、という話がでてきました。 |
■Place Engine
無線LANのアクセスポイントの位置をあらかじめ登録し、現在接続しているアクセスポイントから、自分の現在地を割り出そうとするサービス。
http://www.placeengine.com/ |
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| ■高橋氏 昔は洋盤一枚買うのに3ヵ月かかったというようなことも経験したので、今こういう素早い情報の流通になった時に何を生むのかはとても興味があります。 |
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| ■渡辺氏 たしかに、何がでてくるかわからないという楽しさですね。 |
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■高橋氏 選択肢が増えた時のフォローアップの仕方というか、フィルタリングが重要になりますよね。「この人がキーマンだ」などのような。
ブログは保存されているために重要なものっぽく感じることもありますが、多くのブログはそれほど重要ではない個人的な感想だったりします。濃い情報はそのようなところではなく、趣味に特化したページのようなところに多いですね。 |
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| ■田中氏 チャットというコミュニケーション形態もありますよね。これはコラボレーションになりうるんでしょうか。 |
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■山本さん 学生に戻る前の仕事をしていた頃のチャットは、例えば研究室の人たちなんかとは他愛もない話をしていたかもしれません。
ただ、電話だと相手を束縛するというか、そもそも周りに他愛もない話をしていることがバレるので、気軽なコミュニケーションツールだったと思います。 |
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■福島さん そのチャットは知っている人とですよね。
知らない人、不特定多数の人とたちとのチャット経験もあるんですが、そこでは単純なコミュニケーションというよりは、現実世界でのコミュニケーションではできない、別人格を作った上でのコミュニケーションもありました。
演じているということがあるので、ある程度匿名さもあって、発言に責任がないという感覚も、確かに面白く感じました。
前田さんにお聞きしたかったのですが、「スーパーフラット」という言葉が最近、SNSの流行等とあわせて語られることが多いと思います。このあたりは匿名性とあわせて、前田さんはどのように考えられているのでしょうか。 |
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■前田氏 昔、ケータイは、それをもっている人同士のステータスと言うか、「自分はこれだけ忙しい」というようなラベルだったのですが、だんだんそれが普及してしまったときには、ケータイをもっているというだけではそのステータスの人の集まるコミュニティにははいれないわけです。
インターネットもこれだけ普及する前は、それを使っていると研究者かなにかだと思われるような状況があったと思います。
ミクシィも、最初に使っていた人と、これから使う人にとっては別の場である可能性もありますね。
そして、そういった「フラット化」とは別のレイヤーとして、匿名性のようなものがあるのではと思います。
例えば、アルファブロガーと呼ばれる人々がいますが、これは匿名性を維持しながら、顕名性も持っているというような、例だと思います。匿名でブログを始めたのに、話題になってしまって有名になったとします。これは、匿名性を維持できていると言えるでしょうか。最初は匿名だったかもしれませんが、その匿名が別の人格として他の人たちから意識されてしまうような問題ですね。普通の人だと疲れてしまうのかもしれませんが、芸能人だとそういうことに疲れない人が多いと思います。 |
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■福島さん 相手が誰なのかわかった場合には、現実世界での主従関係が発生してしまって、そのような状態ではスーパーフラットになりにくいのかなと思いました。
しかし、一方で、そのようなバーチャルな場での評価は現実での評価と価値に差があるのかなということも考えます。先ほどの、成功体験というものを、どうネットがサポートしていけるのか、という話に近いのですが。 |
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■前田氏 Second
Lifeが最近面白いという話を聞きました。
ある規模を越えたところで、全然想定されていなかったようなことをする人たちがでてきたりしているみたいですね。ロケットの歴史のようなものをSecond Lifeの中で3Dでつくって展示している人とか。
そういうことに対する評価は、現実世界での評価にしてもネット上での評価だったにしても、あまり差はないと思います。 |
■Second Life
Linden Labが運営する、バーチャルコミュニティ。3D空間内に、ユーザーは様々なデータを創りだすことができる。それらを取引するための通貨も用意されている。
http://secondlife.com/world/jp/ |
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